■JR日豊本線に秘境駅が? JR日豊本線は、福岡県小倉駅から鹿児島県鹿児島駅までを結ぶJR九州の主要路線のひとつである。 小倉から始まり、中津、別府、大分、佐伯、延岡、宮崎などと東九州の主要都市を網羅し、物流と経済の流れを支える大動脈である。 ある筋から、ここに「秘境駅」が存在するという情報を得たのだ。しかも主宰の住む佐伯市だという。 調べてみると、全国38位に位置するらしい(秘境駅に行こう!による)。 2019年版がアップロードされていたが、なんと35位に浮上していた。 秘境度がさらにアップの宗太郎駅である。 秘境駅というのは、秘境駅訪問家である牛島隆信氏が提唱する、「周囲に人家が少なく大自然の真っ只中にある駅」である。牛島氏のホームページに「秘境駅」の詳しい解説があるので紹介しよう。 なお、リンクについては「リンクフリー」ということで、勝手にリンクさせていただいている(牛島氏には紹介の旨をメールでお知らせ済み)。
JR日豊本線を見ると、小倉駅から大分駅までは、ほぼ複線区間であり、駅の周囲には国道や県道が通り、乗降客もそれなりにあり、秘境という雰囲気はない。普通に町が広がっている。
しかし、大分駅から鹿児島駅までは、日豊本線と「本線」を標榜しているにもかかわらず単線で「本線」が作られており、優等列車である「特急 にちりん」ですら、行き違いの必要から駅で待機することがあるのだ。 ちなみに、大分県では、この行き違いを「離合(りごう)」と称している。地方の方言ですな。 主宰は大分県人であるので、以下、「離合」を使わせていただくことにする。 さて、単線とはいえ日豊「本線」であるので、列車の運行本数は結構ある。 大分駅以南ではところどころ「無人駅」も存在するが、駅の周囲には人家が広がり、駅が昔も今も経済の中心であることを示している。
ところが、そのような状況も佐伯駅を境に激変する。 特急列車は1時間に1本の割合で通過するにも関わらず、停車する本数が極めて少ない駅が並び始めるのだ。 実は、大分県佐伯駅から宮崎県市棚駅までは、これまでに走っていた海岸部を離れ山間部に入っていく。 宮崎と大分を結ぶ峠の中でも一番の難所と呼ばれた「宗太郎峠」を越えるのだ。 そこに秘境駅はある。 ■秘境駅。その名は「宗太郎駅」 なぜ、日豊本線が宗太郎峠を通ることになったのか。これにはいろいろの説がある。 主宰の昔語りからの話 主宰が幼いころに父や祖父から聞いた話では次の通りである。 話には海部(あまべ)の反対運動がでてくる。 本来なら佐伯駅から蒲江を通り、北浦から延岡に延びるはずだったのだが、蒲江から佐伯までの輸送を担っていた荷馬車の業界が自分たちの仕事がなくなると猛烈な反対運動を展開したというのだ。 確かに、蒲江から佐伯に出るには海岸方面を走ると畑野浦の峠が、山方面を走ると青山の峠が現れる。 荷馬車でなければ通ることのできない険しい峠道で稼いでいた生活が、鉄道が通ることで失業となる。 そういうことで反対運動を行ったというのである。 この話には後日談もついてくる。 鉄道を追い払って喜んだ業界の人だったが、戦後の急激なモータリゼーションの嵐に、荷馬車での輸送はトラック輸送に取って代わられ、たちまち消えていったのだと。 後に残ったのは先を読めなかった人々と、鉄道のない寂れた町だけだったと締めくくられる。 これは何かを示唆する寓話だったのだろうか。 しかし、調べてみるも蒲江町に残る町史にも、反対運動で鉄道を追い払い、勝ち鬨を上げたという記述は出てこない。 また、荷馬車で輸送をしていた人たちは輸送手段を新しい輸送手段であるトラックに切り替えていったため、寓話のような悲劇がすべてではなかっただろう。 どこでどう伝わった話なのだろうか。また、このような事実はあったのだろうか。 友人もこの話を知っていたから、親父のほら話というわけでもないだろうが。 費用から路線が決まった話 さて、佐伯市図書館などで史実を紐解くと、別の話が出てくる。 海側を進んでいた日豊本線であるが、本来なら大分駅から犬飼を通り佐伯に接続する予定だったそうだ。 これは現在の豊肥本線と似たようなルートだ。犬飼以降は今の一般国道10号を考えたら当てはまりそうだ。 本来なら計画になかったのであるが、高度な政治的判断が働いて、海岸方面に計画が変更された。 変更された軸線上に、これまた高度な政治的判断の賜物で上臼杵駅と臼杵駅が設置されたというわけだ。 ちなみに、臼杵駅と上臼杵駅の両駅の間は約1.4キロ。普通の鉄道の駅の考えではありえない近距離だ。 あえて、駅を設置する。そこで利を得たものもいたのだろう。 政治的判断で計画が変更されていた日豊本線であるが、佐伯駅以南は山間のルートがひとつ、海岸ルートが2つ考えられたという。 山間ルート 佐伯から上岡を通り、直見、直川、重岡、宗太郎、市棚、日向長井、延岡 (現日豊本線) 海岸ルートA 佐伯から木立を通り、蒲江、長井峠を経て延岡方面へ。(これが風来坊の聞いたルートらしい) 海岸ルートB 佐伯から堅田を通り、森崎、古江、浦尻を経て延岡方面へ。(今の東九州高速道ルートに近い) 結局、山間ルートが選ばれたのだが、これは国道が通っているので建設の経費が、当時のお金で160万円ほど安価になるという試算から決定されたという。あくまで費用からの決定らしい。現在の額に換算すると億に近い額らしい。 こちらのほうが信憑性はありそうだ。 しかし、国道が通っていても宗太郎峠である。 難所中の難所である。経済的な背景もあり工事は難航を極めたという。 物価の上昇などで、請け負っていた会社がはじめの見積もりで仕事を続けることができずに、投げ出したという話も伝わっている。 経費が安いという理由で内陸部に展開した日豊本線。 宗太郎越えと呼ばれる難所を越えるために、鉄道省は37のトンネルを掘った。 しかし、最高の勾配が1000分の20という急勾配(これは1000m進むと20m高度が上がる意味)と、宗太郎峠に一番近い「重岡駅」と「市棚駅」の間が、15キロもあるので、列車の離合と蒸気機関車の運転の関係から、宗太郎越えの平坦な部分に1923年(大正12年)に信号所を設置することにした。 それが今の宗太郎駅である。 駅を中心に人家が広がり、経済の中心となるはずが、このような理由で設置されたのだから、大きな集落は形成されず利用客はひどく少ない。 現地に取材に行くと10軒ほどの民家を確認することができる。 JR九州のデータによると1日あたりの乗車数は1名を切るらしい。 ちなみに隣接する重岡駅と直川駅の間にある「川原木信号所(かわらぎしんごうしょ:列車離合のための信号所)周辺のほうがはるかに人家が多い。 川原木信号所を駅に昇格させて、宗太郎駅を信号所にという運動も地元にはあるらしい。 初めは列車が離合するだけの信号所扱いだったが、列車が止まる駅なのに人間が乗降できないのは不便だという地元の請願で、1947年(昭和22年)に駅に昇格した。 昭和7年ごろからは便宜的に乗降客を扱っていたが、これで名実共に駅として機能することになったのだ。 利用者数が極めて低いこと、そして区間内に自動信号装置(CTC)が導入される昭和47年に無人駅となってしまった。今は、ホームにCTC設備の局舎が駅舎の代わりに立っている。
国鉄から資産を継承したJR九州も駅としての価値を見たのか、平成27年の今をもってしても無人駅として存在している。 さあ、秘境駅「宗太郎駅」を攻略しようか。
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